慣れの力強さ

「慣れ」というのは適応すること。

ある状態から別の状態に移ったとき、人は新鮮な感覚を覚える。それらの感覚が何度も何度も入力される毎にその感覚の大きさは補正され、減衰する。「ああ、またか」と体が覚えてしまって驚かなくなる。慣れる。



「慣れ」というのは非常に保守的なパワーがある。

生き物は生存確率を上げるために、本能的に安定を求める面がある。変化はハイリスクハイリターンでだからだ。それを裏打ちするのが「慣れ」という機能。
慣れるとそれだけで愛着が湧く。慣れがレベルアップすると愛着になる、と言ってもいいかもしれない。
例えば使い慣れたメガネは、それが客観的に見てかっこ悪かったり、度があってなかったりしても、変えたくなかったりする。むしろ何だかかっこよく思えてきたりする。慣れ親しんだ家、手慣れた方法などからは、誰も離れたがらない。

そのへんが慣れ・愛着の力強さの正体。客観的な正しさなんて吹き飛ばしちゃうほど、保守的で圧倒的なパワーがある。



慣れの力強さを決定するファクターで最も大きいのが、時間。

時間に比例して慣れの力強さはどんどん上昇する。慣れの対象とどれほど長い時間を過ごすか。長ければ長いほど、慣れの対象に対して払うコストが減少し、慣れの対象を変えるときのコストは上昇する。
例えば、歩き方なんて慣れまくってるから殆どオートでできるし、この歩き方の方が疲れないよなんて言われてその方法に変えようにも体が言うこときかなかったりする。



十分な年月を経たネコが猫又になるように、十分慣れ親しんだ対象は本人の思考を奪うほど強い。
ある人が金儲けのために宗教を始めたはよいが、10年後荒唐無稽な教義をもっとも強く信じていたのはその創始者だった。




あんまり可愛くないけど長いこと付き合ってる彼女のことを「わりと良い女なのでは?」と思ってしまって勢いで書いた。慣れは安定のためには素晴らしい機能だけど客観性の排除は成長に反するので、できるだけ慣れの罠には嵌らないように意識していきたい。