「人に優しいメソッド」のデメリット

先日、友人と電車に乗る機会があった。2人なのにで空いている座席は1つ。そのとき僕のとれる行動は

A「僕は大丈夫だからキミ座りなよ」
B「お前確か立ってんのが好きって口癖のように言ってたよな。じゃあしゃーないから立つほうを譲ったるわ。あー立ちたかったなー。」(無駄に関西弁)

どちらがよいのか。もちろん場合によるのだが、実際に僕がとった行動はBだった。その理由は僕の行動原理が「おもしろさ志向」で、「人に優しいメソッド」が嫌いだからだ。


本題ではないがおもしろさについて。おもしろさは短期的にも長期的にも目標になり得るし、プラスの感情の源泉だし、成長を促す作用もある。これほど単純で汎用性の高い構造はなかなかないと思っていて、とても気に入っている。


そして「人に優しいメソッド」。これは基本的には汎用性が高いし共通言語のような作用もあるのだが、様々な問題点を孕んでいる。

例えば強制力。
Aのようなセリフを僕が言ったならば、友人は「ありがとう」や「僕は遠慮するからtetsukawa座りなよ」というようなセリフを吐かなければならない。これは友人が別に有難く思っていなくても遠慮する気がなくても、人間関係を円満にするために必要である。構造的には僕がAを言うことで友人の行動を強制していると言える。

例えば低レベルなコミュニケーションの発生。
Aを言ったから友人は「ありがとう」といわなければならないのだが、この「ありがとう」の非生産的っぷりは酷い。もちろん感謝の意を伝えるという意味で改善の余地なんてあまりないのだが、誰でも予測できるし完全に使い捨てのセリフで誰の心にも響かない。これもAを言わなければ発生しない状況であり、なおかつBを言えば友人はもっとクリエイティブな発言ができる余地がある。

例えば上から目線。
Aの発言は立場が上の人間の発言である。もちろん完全にいたわりの気持ちから発露した場合もあるだろうが、外から見たら分からない。友人はもしかしたら「なに上から言ってきてるんだよ」と思っているかもしれない。

例えば距離感。
優しさは度が過ぎればうざい。となりのおばちゃんがくれる手作りの煮物とか、ちょっとうざく思う人も多いだろう。友人「ほんの5分なのに席ゆずるのが優しいとでも思ってんのか、ビチグソが」

例えば無自覚さ。
この状況でAを言う人はとても多いのだと思う。でも今あげたような問題点を認識している人がその中でどれだけいるだろうか。知らぬ間に友人から嫌われているかもしれない。無自覚や無知は本当に怖い。



帰省すると昔の友人などと会えて楽しいですね。